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では、その心は何のためにあるの?

過去 現在

 ルーツがない。ルーツ、つまり根っこである。俺には根っこがない。いや、根っこはあるのかもしれないが、その根っこが根差すべき土がない。土台がない。30になって、つくづくそう思うようになった。

 たとえばエヴァンゲリオン。『新世紀エヴァンゲリオン』が放送された95~96年は小学六年生、二つの劇場版が公開された97年には中学に上がっていた。もちろん同年代でリアルタイムで視聴していた人間も大勢いるだろうが、直撃世代と呼ぶには少し足りない。いずれにせよ当時の俺は観なかったし、まったく興味がなかった(興味がなかったが、それとは無関係になぜかラジオ番組「緒方恵美の銀河にほえろ!」は聴いていた)。小学生の時分から、ジャンプ、マガジン、サンデー、チャンピオンなどの主要な少年誌を一切読んでこなかった。その代わり、ガンガンは欠かさず読んでいた。いま思えば最もおたくっぽい選択なのだが、単にファンタジーが好きだっただけで、そこから順調におたくまっしぐらというわけではなかった(種は撒かれたのだが)。中学に入り、ガンガンがつまらなく思えてきて、次に手にとったのがGファンタジーであった。

 当時のGファンタジーは、その名の通り純粋にファンタジーものが多かった。他と比べると女性作家が多かったのだが、それに気づくのはもっと後のことだ。『聖戦記エルナサーガ』、『超獣伝説ゲシュタルト』、『神さまのつくりかた。』などを好んで読んでいた。特に、『超獣伝説ゲシュタルト』の高河ゆんに関しては、中学二年の頃のクラスメートの女子が、「えっ、男同士でヤっちゃってるんだよ、大丈夫? キモくない?」とか言いつつ、なぜか全巻持っていた『源氏』および『アーシアン』を譲ってくれたのをきっかけにハマった。『源氏』の遮那王義経はかわいいし、『アーシアン』のちはやはかわいいし、『超獣伝説ゲシュタルト』の王理はかわいい。ルーツがないという話をしようと思っていたのだが、強いて言えばこれら高河ゆんの創造したひと癖あるキャラクターには結構な影響を受けたかもしれない。

 しかしそれですぐさまおたくになるというわけでもない。中学二年の時に創部されたバドミントン部に入り、創部初年で都大会ベスト8、二年目に関東大会、さらにその翌年には全国大会で準優勝することになる部活はとてつもなく厳しく、正直に言っておたくになどなっている余裕がなかった。読んでいたGファンタジーも『最遊記』を連載し始めた頃から路線が変わったような感じがして(当時はBLという言葉も知らなかった)、しだいに読まなくなってしまった。もう少し待てば『ぱにぽに』が始まっていたので、惜しいことをしたとも思うが、これもいまだから言えることだ。

 高校時代はほとんどバドミントンしかしていなかった。その傍ら、村上春樹や初期の大江健三郎を読む程度で、やはり「オタク」趣味というようなものは皆無の生活だった。エヴァの直撃世代ではなかったものの、おそらくゼロ年代には直撃していた年代だったはずだ。だが、当時の俺は脳筋だったので、葉鍵、型月などのメーカーどころかギャルゲーというものの存在すらろくに知らなかった。そもそもパソコンも持ってなかったわけだし。

 大学に入り、自分のバドミントンの才能に見切りをつけ、暗黒の高校時代に復讐するかのごとくチャラい感じの生活を送るようになるのだが、ここでは割愛しよう。ちゃらんぽらんに過ごしていた大学三年時、悪い友人がとあるアニメの動画を観るよう薦めてきた。『ひだまりスケッチ』である。書割のような背景、主要キャラクター以外は棒人間というその手法はとても新鮮に映った。いま見ると「うーん、シャフト……」という感じなのだが、なんにせよその時、ほとんど生まれて初めてアニメというものに興味を抱いたのだ。それからアニメを観るようになった。10年越しにエヴァンゲリオンを観て、人並みに衝撃を受けたりもした。『スクールランブル』で能登麻美子に出会った。『交響詩篇エウレカセブン』で作画の面白さを知った。そうやって少しずつ少しずつ、時計の短針のごとく、じわじわと、後戻りできない道へと進み始めたのだ。

 

 そしていま、俺は立派なニートになった。なにしろ働きたくない。しかし人間は働いて金を稼がないと生きていけない。でも絶対に働きたくない。どうしよう……。

 そうだ、小説家になればいいんだ!!!!

 しかしながら、先のエントリを読んでもらえばわかるように、まったく小説が書けていない。ここでようやく本題に入れるわけだが、なぜ書けないのか、あるいは書いても全ボツにしてしまうのかといえば、甘えや怠惰は当然として、自分という人間にそもそもルーツが、根差すものが何もないからなのではないか、そう思ったわけなのだ。「私は◯◯先生の『××』という作品に衝撃を受けて、これしかない! と思って△△を始めました!」みたいな体験がない。あるいは逆でもいい。映画監督の青山真治は、中上健次の小説を読んで「これは敵わない」と思って小説家になるのをやめた、というような話を聞いたことがあるが、それも同じことで、つまり「何か」に魂を揺さぶられ、人生設計の変更を余儀なくされるような決定的な体験が、自分にはまったくないのだ。もちろんこれは極端な話で、そうそう簡単に誰にでもそんなことがあるわけがないのだが、もっとレベルを落として、「私は◯◯しかやってこなかったし、◯◯にかけては人に遅れをとることはない」などといったような、勝負できる専門分野もない。俺には何もないのだ。

 あたりまえだが、これもまた甘えなのだろう。誰だって、ひとつのことを十年ぐらい続ければそれなりのものになる。俺にはその時間があったはずだ。しかしすべて無駄にしてしまった。「いまからでもやればいい」たしかにそうだ。だが、俺はもう30なのだ。両親ももう老人と言って差し支えない。早く結果を出したい。そうやって焦れば焦るほど、何もできなくなる。いま、何かを始めたとしても、過去の貯金を切り崩すしか術はなく、その「貯金」さえないのだ、という話をした。貯金どころか、負債を抱えているようなものだ。

 

 それでもやっぱり、コツコツ返していくしかないんだろう。まずは、いまできることをする。そこからしか何も始まらない、始められないのだ。