そういえば文学部卒だった

 彼は雨に濡れたまま、アスファルトの上を踏んで行った。雨は可也烈しかった。彼は水沫の満ちた中にゴム引の外套の匂を感じた。

 すると目の前の架空線が一本、紫いろの火花を発していた。彼は妙に感動した。彼の上着のポケットは彼等の同人雑誌へ発表する彼の原稿を隠していた。彼は雨の中を歩きながら、もう一度後ろの架空線を見上げた。

 架空線は不相変鋭い火花を放っていた。彼は人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかった。が、この紫色の火花だけは、――凄まじい空中の火花だけは命と取り換えてもつかまえたかった。

 

芥川龍之介或阿呆の一生」より

  

 いつのことか憶えていないが(憶えていないことが多すぎるな)、初めて読んだときから妙にこの一節に惹かれている。世の中には、精神を一定以上追い込まないと書けない文章というのがあって、これがまさにそう。「病的」と「病気」の間にあるような文章だ。ブログの書き方を試しがてら、引用してみた。これみたいな最晩年の作品もいいけど、作品単体としては「戯作三昧」がいちばん好き。特にワナビにとっては感涙必至なので、全ワナビに読んでほしい。

 

「おい。いまのは贋物だぜ。」私は自分の顔が真赤になるのを意識した。耳朶まで熱くなった。

「知っていました。」と家内は、平気であった。「私が出て、お断りしようと思っていたのに、あなたが、拝見しましょうなんて言って、出てゆくんだもの。あなただけ優しくて、私ひとりが鬼婆みたいに見られるの、いやだから、私、知らん振りしていたの。」

「お金が、惜しいんだ、四円とは、ひどいじゃないか。煮え湯を飲ませられたようなものだ。詐欺だ。僕は、へどが出そうな気持だ。」

「いいじゃないの。薔薇は、ちゃんと残っているのだし。」

 

太宰治「善蔵を思う」より

 

 昨年の二月に太宰治の故郷、金木を訪ねた。特に印象に残っているのが、太宰が戦禍を逃れて疎開してきた際に暮らしたという「津島家新座敷」。自分が立ち寄ったときは、運良く他に誰もいなかったので、とても丁寧な(イケメンの)ガイドを独占できた。コンパクトながら、和洋折衷の建築物としても見どころがあり、兄との和解の場ともなった新座敷は、太宰の生涯のなかで最も平穏だった時代のひとつの象徴でもある。「太宰治」という鎧を外した、金持ちの家の六男としての、夫としての、父としての津島修治その人の一面に触れたようで、なんとなく温かい心地がした。「小説書きてえ!!!!!」という思いがにわかに沸き立ってきた。すぐ冷めたが。なんにせよ「津島家新座敷」は、生家であり太宰目当ての観光客がまず向かう「斜陽館」などより、はるかに太宰治を身近に感じられるスポットだったので、五所川原に出向くことがあったら立ち寄ってみてほしい。たぶんあんまり人いないし。

 

 小説書きてえ……書かなきゃ……。

大きな地震がきたって

 あの日、俺は自宅から歩いて5分の場所にあるパチンコ屋でスロットをやっていた。

 何の機種をやっていたのかまでは憶えていないが、なんというか、めずらしく「出て」いた。2000枚ぐらいだっただろうか。等価交換の店であれば4万円ぐらいか。投資額も憶えていないが、まあなんにせよ勝っていた。当時、コンビニで夜勤をやっていたのだが、金さえあれば眠いのを我慢して昼間にスロットをやりに出かけた。つまり病気だったわけだ。有り余る(ように見えた)時間と限りある金、そしてそれらを配分することで生み出せたはずのありとあらゆる可能性をドブに捨てる。ギャンブルとはそういうものだ。俺はかけがえのない20代のほとんどすべてを、千円札とともに虚無に飲み込ませた。

 まあとにかく、その日も俺は死んだ魚のような目でドラムをくるくる回していたのだ。

 そして、地震が起きた。

 初めは、「お、けっこう大きいぞ」ぐらいにしか感じなかった。が、すぐにガタガタガタッと尋常ならぬ縦揺れに変わった。そのとき、俺がまずやったことは、台の上に積んであったメダルの箱を押さえることだった。客入りはまばらだったが、まあみんなだいたい同じことをしていたと思う。平日の昼間からパチンコ屋にいる人間なんてのはだいたい金の亡者なので、身の安全よりもあぶく銭を墓まで持っていくことを考えてしまうのだ。しかし揺れは収まらない。さすがに慌てて外に避難した。パチンコ屋の店員は、ろくに避難誘導もしなかった。

 裏口から駐車場に出ると、文字通り、地面が揺れていた。縦揺れは収まっていたが、まるで船に乗っているように、ぐらぐらと、自動販売機が、カーブミラーが、地面そのものが、いつまでも揺れている。ここにきてようやく、これは普通ではないと思い至った。後から逃げてきた客も、店員も、みなぽかんとした顔をしている。その時点ではまだ、これが死者・行方不明者合わせて2万人に届かんとする史上最悪レベルの自然災害になるなどとは、おそらく誰も思っていなかったことだろう。少なくともこの東京では。

 揺れが完全に収まるまで、何分間待っていただろうか。さすがに「こんなことしてる場合じゃない」という正常な危機感を覚える程度には人間性が回復し、それでもメダルの交換だけはきっちりと済ませてさっさと立ち去ることにした。大卒の非正規雇用者というだけで肩身が狭いのに、これで倒壊したパチンコ屋から死体が発見されでもしたら親が泣く。

 その後、俺がとった行動は不可解なものだった。歩いて20分ほどかかる中央線の駅に向かったのだ。特に用はなかったはずなのだが。しけた駅だが、それでも中央特快が停まる程度の駅。というか、国分寺駅である。当然のことながら、駅は騒然としていた。改札前の広い通路に、通常では考えられないぐらいの人がごった返していた。もちろん電車はすべて止まっている。俺は何をするでもなく、騒がしい人々の様子をぼんやりと眺め、それからまた歩いて家に帰った。歩いている途中、思い出したように母親の携帯に電話をかけた。こういうのを偽善者と言うんだろうな、と思いながら。

 

 その後のことは、特に説明することもないだろう。生き残った人々がそれぞれに体験したように、ここ東京においてもそれなりに非日常な日常が始まり、それは数ヶ月もの間続いた。バイトしている店には品物がまったく入ってこず、略奪の後のように棚がすっからかんになった。客は奪い合うように水を買っていった。計画停電が始まった。夏に、地震とは何の関係もなく死んだ祖母の遺体が家に運び込まれ、葬式の日まで安置された。停電により、灯りが点かず西日が差しこむだけの部屋で、母親が呟いた「このままじゃおばあちゃんが腐っちゃうよ」という言葉がひどく印象に残った。同じ年の間にもうひとりの祖母も死んだ。どちらの葬式でも、涙は一滴も出なかった。死ぬときはだいたいみんな一緒だな、という感想だけが残った。全身わけのわからない管に繋がれ、記憶が混濁し、指が曲がったまま動かなくなり、自らの力でものを食べることさえできなくなる。ただ引き延ばされただけの命の灯、それもやがて消滅する。人間は必ず死ぬ。死は誰にも等しく訪れる。しかし、縁のある人間に看取られて死ねる人間は少ない。看取るのが俺のような人間では浮かばれないだろうが。

 

 この話には意味も教訓もない。終わってみれば、特に震災とも関係がなかった。

 これは、俺はろくでもない不孝者なのだという、ただそれだけの話である。

僕はブログが書けない

実を言えばこれが人生三度目のブログ開設である。

最初のブログは、よくは憶えていないが、詩を書いたり好きな小説や漫画の一節を引用して並べたりする感じのやつで、そんなに悪くなかったんじゃないかといまでは思う。数年に一度、ネット上のあらゆる自分の痕跡を消し去りたいという衝動に駆られるのだが、おそらくはその一環としてそのブログも削除されたのだろう。よく憶えていないが。

その何年後かに、はてなでブログを開設した。「はてなやってると頭よさそう」みたいな頭の悪い理由だったと思う。このときは、結局ただの一度も記事を書かないまま、泣きながらはてなのアカウントごと削除した。すでにツイッターをやっていたので、それでほとんど承認欲求が満たされてしまっていたというのもあるだろう。悲しいことに、「何か書いていないと死ぬ」というような切迫した、内なる熱情が自分には一切ないのだ。そのことを強く自覚するとともに、ブログ恐怖症みたいになって、長らく他人のブログを閲覧するのもつらい感じになった。

そしていまである。なぜいま、苦手意識のあるブログにふたたび手を出そうとしたのかというと、深い理由は別になくて、ツイッターのみんながはてなブログでわいわいしてる(わいわいはしてないかもしれない)のを見て、かなり羨ましかったからだ。いまでもブログに対して強い苦手意識があるし、もはやライフラインになっているツイッターに比べれば、いまさらブログを始める意味など皆無に等しい。正直に言って、こうして記事を書いているいまも、「なんでブログなんて始めたんだろう……」と自分の判断に強い疑念を抱いている。ツイッターでさえ書くべきことがないのに、況やブログにおいてをや、である。いま自分が揺るぎない信念をもって書けることがあるとすれば、NTRとかエロ漫画とかについてしかなく、それすら、現状ではツイッターで事足りている。小説も書かなくなって久しい。ブログに書くことが何もない。なので、こうして最初の記事から「書けない」ということを書いているわけだ。なんでブログなんて始めたんだろう……。

 

これは数年前のリベンジであり、ブログのタイトルもそのときの、一度も使われることのなかったときのものを再利用している。いろいろごちゃごちゃ言ったが、先にも言った通り、最初のブログはなかなか悪くない方向性だったと思っているので、これもそのような向きになるのかもしれない。あるいは、これが最初で最後の記事ということも現時点では大いにありうる。とりあえずは、深く考えないでやっていきたい。考えすぎて良いことは何もない。これは自らの乏しい人生経験から導き出した、ほとんど唯一の真実である。