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穴を埋める

 去年、台風で北海道のジャガイモ畑が壊滅的な被害を受けたというのはニュースで見ていたが、その時点では己の生活に何か影響が出るとは思っていなかった。だが、今年に入り、湖池屋カルビーなどの会社がいくつかの主力ポテトチップス商品の発売を中止するに至り、俺は事態の深刻さを初めて認識したのだった。

 そして現在、コンビニのスナック菓子棚では熾烈な椅子取りゲームが始まっている。最初に後釜に座ったのはビーノ。枝豆を主要原料としたスナック菓子の元祖で、ひょっとしたら個人的にはポテトチップスよりも好きなので喜んで買っていたのだが、たった三週間ほどで姿を消してしまった。そして入れ替わり立ち替わり現れては消えていく新商品。キャラメルコーンのクリームソーダ味は、東京ディズニーランドのソーダ味のポップコーンが好きな俺の琴線に触れたが、二週間で棚から消えた。俺しか買わなかったから追加発注をしなかったのだろう。今日は山芳のパインアメ味ポテトチップスなどという正気を失った商品を見た。試そうという気すら起きなかった。お菓子やペットボトル飲料に限ってはそれなりにゲテモノも好むが、別に不味いものが好きなわけではないのだ。

 そして今週から、棚の隅でひっそりと、しかし虎視眈々と次なる王座を狙っている存在がある。コーンポタージュである。これもなかなかに息の長い商品で、リスカというヤバい名前の会社から出ている。これも、ポテトチップスより好きなスナックなので、日の目を見ているいまのうちに可能な限り食べておこうと思う。

 

 ポテトチップスが抜けた穴をめぐる勢力争い。まるで空き地に生える雑草の移り変わりを見ているようだが、こんなことでもないとビーノやコーンポタージュといった準主役級のスナック菓子たちの存在を、それが好きだったことも思い出せなかっただろう。だって、普段はコンビニの棚に置いてさえいないのだ。ジャガイモ農家には悲劇だろうが、それが生み出した菓子棚の混乱は、消費者にとって悪いことばかりではなかろう。諸君、このひと時の混乱を楽しみたまえ。

 

 

 

(追記)みんなブログ更新してて偉いな~と思ったので、よっしゃ俺もいっちょ何かリリカルなやつ書いてやるか、と書き始めた。リリカル、向いてないのかもしれない。

雨が降っている

 雨が降っているのでブログを書きます。

 どうやら一年以上放置していたらしく、自分自身このブログの存在を完全に忘れていた。読み返してみると開設当初からしきりに「書くことがない」とか言っていて、それはこれを書いている今日この瞬間も変わりない。何も書くことがない。相変わらず小説が書けていない。仕事も見つかっていない、いや、もはや見つける気もない。アニメさえろくに観ていない。世界に向けて報告することが何もない。果たして、何もない人間が何かを書くということができるのだろうか?

 

 傘が嫌いだ。憎んでいるとさえ言っていい。

 まず片手が塞がる。これは心を失った人々が行き交う都市をサヴァイヴするのには致命的なディスアドバンテージだ。そして、ひとたび雨が止めばその瞬間にゴミと化す。加えて、すぐなくなるし、すぐ盗られる。雨の日、コンビニの入り口にこれ見よがしに傘立てが置いてあるのを見るたびに俺は苦々しい気持になる。さも「ここに傘を立てろ、床が濡れるから店内に持ち込むな」と言わんばかりの傘立て。よしわかった。ここに傘を立ててやるとしよう。それで、誰かに盗まれたら、あるいは悪気はなくとも間違えて持っていかれたら、お前らは責任をとってくれるのか? 人を馬鹿にするのも大概にしろ。

 何年か前、ツイッターの某フォロワーと会ったとき(その日は雨が降っていた。もちろん傘は差していなかった)、「傘差さないんですか?」と訊かれた(記憶が確かなら、その人も傘を差していなかったのだが)ので「傘が嫌いなんです」と言ったら、「それ面白いですね」と言われた。そうかもしれない。その日のことをたまに思い出し、そのたびに思うのだ。

 傘が嫌い。それだけが、俺という人間の唯一のユニークな点なのではないか?

 

 小説がすらすら書ければそれがいちばんいいんだけど、現状そうではない。ツイッター以外でこうしてまともに(まともか?)文章を書くのも何ヶ月ぶりかという有様だ。こんな文章を書くのさえ、実のところわりと苦労している。それでも、こうして人に読んでもらうことを意識して文章を書いたということに、ひとまずは意義を見出したい。

 今日は雨が降っていたので、傘について書くことができた。先にも書いた通り、傘については思うところがあるから。雨が止んだら、そのとき俺は何かが書けるのだろうか。ところで、書いている途中に夕飯の時間になったので夕飯を食べて戻ったら雨止んでたんですよ。ぶっ殺すぞ。

海も花火も夏祭りもアニメが全部やってくれる

 相変わらず特に書くこともないのだが、これ以上放置したら完全に廃墟になってしまうので更新する。

 今期は23本アニメを観てます。いままでのところ、『のんのんびより りぴーと』『城下町のダンデライオン』『監獄学園』『Fate/kaleid liner プリズマ☆イリヤ ツヴァイ ヘルツ!』が特に気に入ってます。のんのんびよりプリズマ☆イリヤが優れた作品であるのは、いまさらわざわざ言い立てるまでもない周知の事実だし、監獄学園は集まったスタッフ/キャストからして面白くならないわけがない。なので、今期の最も嬉しい出会いは城下町のダンデライオンです。いいですね。非常にいいです。

 城下町のダンデライオンは、異能の力を持つ血統でありこの国を統治する王家・櫻田家の三男六女の兄弟姉妹が、次期国王となるために選挙戦を戦ったり戦わなかったりする話なんですが、根底には常に家族愛があるのでまったくギスギスすることがないし、全員がそれぞれそれ単体でも国家を統べることができそうな異能を持っているのにどうでもいいことにしか使わないのも心が和みます。画作りや演出も全体に抑制されており、是非はともかくとしてパンツとかも映らない。絶対に映らない。どうやら茜様が世のオタクどもの欲望を一手に引き受けておられるようだが(そうなるだけのあらゆる要素がある)、他の女の子も全員かわいい。なんかもう本当にびっくりするほどみんなかわいい。しかし、一有権者として、誰か一人を選ばなければならないと考えた場合、奏様と栞様のどちらを選ぶか三日三晩悩み抜いた挙句に栞様に票を投じることになるのではないかと思う。幼稚園児に国家の未来を託すというのも一興ではないだろうかと思う昨今である。

ホメオスタシスとトランジスタシス、みたいな話

 ジョギングを再開してからすこぶる調子がいい。どうでもいいけど「すこぶる」って「すこんぶ」に似てませんか? どうでもいいうえに広がらないのでこの話やめます。とにかく、年に数回「そろそろ走るか」みたいになる時期があって、まあ暖かくなってきたし、いまがその時期というわけです。太ったので痩せたいというのが強い動機付けになっている。夏に海に行く予定とかは皆無なので、夏までに痩せたいみたいなのは特にないけど、寒くなってくる秋までには痩せたい、というかどうせ冬にまた太るのでそのための貯金を作っておきたい。

 調子がよくなったといっても、別に通じがよくなって痔が治ったとかそういうことではない。むしろ脚なんかメタメタになるし、昔壊した膝が不穏な雰囲気を放っているし、ひきこもっているよりむしろ健康に悪いんじゃないかとさえ思うが、走った後は心地良い疲労感に包まれるし、身体を動かすことによって精神も引きずられるように上向いてきている気がする。その証拠に、平日の昼間に三時間ほど近所のファミリーレストランで小説のプロットを組み立てるという作業をするようになった。まあ、GWは完全にサボったんだけど。

 最初に景気付けにメロンソーダを飲んで、二杯目からはコーヒーに切り替えてノートに向かう。正直まだプロットというよりネタ出し、設定の段階ではあるんだけど、ああでもないこうでもないとやっているのは、これは楽しい。ネタ出しに限っては手書きじゃないとできないので、パソコンなどは持ち込まない。手で字を書くのさえ久しぶりで、ひらがなの「そ」が思い出せなかったのはわりと焦った。テクノロジーの進歩により、人はどんどん外部記憶に頼るようになっていく。

 ネタを出せば出すだけ問題点も出てくるので、作業は遅々として進まないんだけど(本当に、おそろしく進まない)、身体と同じくずっと放ったらかしにしていた脳の筋肉を久しぶりに使っている感覚がある。三時間なんてあっという間に過ぎてしまう。もちろん、家でできればそれに越したことはないわけだけど、家ではツイッターしかしないし、自分の「やる気」とかを俺はまったく信頼していないので、やはり金を払ってでも外に出るべきだろう。いいか、無職が金を払うということは、それはつまり親の金を払うということなんだぞ。ゆくゆくは上手いマインドセットのやり方を身につけて、家でも同じ作業ができるようにはしたい。あまり期待していないが。今回はかなり作り込んでから執筆に入ろうと思っているので、執筆自体は(毎日書けば)一ヶ月あればなんとかなるだろう。準備に時間をかけすぎな気もするが、執筆の途中で暗礁に乗り上げて匙を投げるより三十億倍マシだ。

 

 関係ないけど、スクールガールストライカーズを始めてしまった。沙島悠水ちゃんがかわいい。声を当てているのは最近武道館でライブをしたらしい花澤香菜さんだが、そういうのとはあまり関係なく、ただただかわいい。うまく言えないけど、なんというかこう……かわいいんですよ。茶髪セミロングのアホっぽい子が好き、という自分の嗜好を再確認するものである。沙島悠水ちゃんかわいい。

彼女はいつもドーナツの穴から世界を覗き見ていた

 SHIROBAKOが終わった。俺の人生も終わりにしよう。一度はそう思ったが、まだ生きている。なぜだろう。

 多くの人が、SHIROBAKOは最初から最後まで手堅く作ってきたなという感想を抱いたはずだが、もちろんアニメーションなりの面白さも随所に光っていた。主人公の宮森あおいはしばしば幻覚を見る心の病を患っており、それが演出として最も生かされていたのが第19話「釣れますか?」。この話でみゃーもりは社長と共に武蔵野アニメーションの前身とも言うべき武蔵野動画の社屋の跡地を訪問するのだが、そこでみゃーもりは過去の武蔵野動画の情景を幻視する。丁稚のごとき扱いを受けていた若かりし頃の丸川社長、現役バリバリだった原画マン杉江、美術として駆け出しだった大倉……彼らはそれぞれの情熱を持ち寄り、ぶつけ合ってアニメを作っていた。そして彼らの作っていたのが、みゃーもりの「いちばん大好きな」アニメ、『山はりねずみアンデスチャッキー』である。

 大倉の描いた吹雪の山の美術ボードをきっかけに、シーンは武蔵野動画から一転してアンデスチャッキーの世界に変わる。吹雪のせいで帰れなくなり、洞窟の中で一夜を明かす動物たち。しかし、その動物たちはそれぞれアンデスチャッキーを作っているアニメーターたちの声を代弁している。ひとしきりアニメーションの未来への夢を語り合い、吹雪が止んだ朝、彼らを迎えに来るのがみゃーもりの声をした蛙のベソベソ。そして、みんなで村に帰ろうというところでフィルムが切れ、試写室でそれを観て泣いていたみゃーもりへと視点が戻る。映写機を操作していたのは丸川社長で、おそらく当時の思い出をみゃーもりに語って聞かせながらアニメを流していたのだろう。一つのシークエンスに二つの時間が重なっている。みゃーもりの幻覚をフックにした、見事な演出だと思った。

 

 SHIROBAKOが終わった傷も癒えぬまま、時は残酷に流れ、現在新番組ラッシュの真っ只中である。いまのところ、『ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか』『長門有希ちゃんの消失』『食戟のソーマ』『終わりのセラフ』『ハイスクールD×D BorN』『ガンスリンガー ストラトス』『プラスティック・メモリーズ』『血界戦線』『アルスラーン戦記』『SHOW BY ROCK!!』『攻殻機動隊AAA』『てーきゅう 第4期』『高宮なすのです!』『ミカグラ学園組曲』『響け!ユーフォニアム』『トリアージX』『放課後のプレアデス』『えとたま』『パンチライン』『シドニアの騎士 -第九惑星戦役-』の1話あるいは2話までを視聴した。『ダンまち』はキャラクターデザインで一点突破してきた。ヘスティアの紐は一週間足らずで巷の噂から伝説にまで発展した。個人的にも、ヤスダスズヒト原案のわりにヤスダスズヒト感が薄くて好感がもてる。『ミカグラ学園組曲』はとても心地良いテンポでギャグがギャグとして成立していてよかった。それだけに、ここからどうやってあの冒頭に繋がるのか気になる。主人公もみゃーもりを演じた木村珠莉さんだし、ちょっと気が早い気もするが今期の推しが決まったかなという感じだ。他はまだなんとも言えない。1クールに5本も観ればいい方という人間なので、まあたぶん3話ぐらいまでにガシガシ切っていくことになると思う。

 あと最後に言わせてもらいたいんだけど、『ハイスクールD×D BorN』のEDにはがっかりした。

 

 以上です。

では、その心は何のためにあるの?

 ルーツがない。ルーツ、つまり根っこである。俺には根っこがない。いや、根っこはあるのかもしれないが、その根っこが根差すべき土がない。土台がない。30になって、つくづくそう思うようになった。

 たとえばエヴァンゲリオン。『新世紀エヴァンゲリオン』が放送された95~96年は小学六年生、二つの劇場版が公開された97年には中学に上がっていた。もちろん同年代でリアルタイムで視聴していた人間も大勢いるだろうが、直撃世代と呼ぶには少し足りない。いずれにせよ当時の俺は観なかったし、まったく興味がなかった(興味がなかったが、それとは無関係になぜかラジオ番組「緒方恵美の銀河にほえろ!」は聴いていた)。小学生の時分から、ジャンプ、マガジン、サンデー、チャンピオンなどの主要な少年誌を一切読んでこなかった。その代わり、ガンガンは欠かさず読んでいた。いま思えば最もおたくっぽい選択なのだが、単にファンタジーが好きだっただけで、そこから順調におたくまっしぐらというわけではなかった(種は撒かれたのだが)。中学に入り、ガンガンがつまらなく思えてきて、次に手にとったのがGファンタジーであった。

 当時のGファンタジーは、その名の通り純粋にファンタジーものが多かった。他と比べると女性作家が多かったのだが、それに気づくのはもっと後のことだ。『聖戦記エルナサーガ』、『超獣伝説ゲシュタルト』、『神さまのつくりかた。』などを好んで読んでいた。特に、『超獣伝説ゲシュタルト』の高河ゆんに関しては、中学二年の頃のクラスメートの女子が、「えっ、男同士でヤっちゃってるんだよ、大丈夫? キモくない?」とか言いつつ、なぜか全巻持っていた『源氏』および『アーシアン』を譲ってくれたのをきっかけにハマった。『源氏』の遮那王義経はかわいいし、『アーシアン』のちはやはかわいいし、『超獣伝説ゲシュタルト』の王理はかわいい。ルーツがないという話をしようと思っていたのだが、強いて言えばこれら高河ゆんの創造したひと癖あるキャラクターには結構な影響を受けたかもしれない。

 しかしそれですぐさまおたくになるというわけでもない。中学二年の時に創部されたバドミントン部に入り、創部初年で都大会ベスト8、二年目に関東大会、さらにその翌年には全国大会で準優勝することになる部活はとてつもなく厳しく、正直に言っておたくになどなっている余裕がなかった。読んでいたGファンタジーも『最遊記』を連載し始めた頃から路線が変わったような感じがして(当時はBLという言葉も知らなかった)、しだいに読まなくなってしまった。もう少し待てば『ぱにぽに』が始まっていたので、惜しいことをしたとも思うが、これもいまだから言えることだ。

 高校時代はほとんどバドミントンしかしていなかった。その傍ら、村上春樹や初期の大江健三郎を読む程度で、やはり「オタク」趣味というようなものは皆無の生活だった。エヴァの直撃世代ではなかったものの、おそらくゼロ年代には直撃していた年代だったはずだ。だが、当時の俺は脳筋だったので、葉鍵、型月などのメーカーどころかギャルゲーというものの存在すらろくに知らなかった。そもそもパソコンも持ってなかったわけだし。

 大学に入り、自分のバドミントンの才能に見切りをつけ、暗黒の高校時代に復讐するかのごとくチャラい感じの生活を送るようになるのだが、ここでは割愛しよう。ちゃらんぽらんに過ごしていた大学三年時、悪い友人がとあるアニメの動画を観るよう薦めてきた。『ひだまりスケッチ』である。書割のような背景、主要キャラクター以外は棒人間というその手法はとても新鮮に映った。いま見ると「うーん、シャフト……」という感じなのだが、なんにせよその時、ほとんど生まれて初めてアニメというものに興味を抱いたのだ。それからアニメを観るようになった。10年越しにエヴァンゲリオンを観て、人並みに衝撃を受けたりもした。『スクールランブル』で能登麻美子に出会った。『交響詩篇エウレカセブン』で作画の面白さを知った。そうやって少しずつ少しずつ、時計の短針のごとく、じわじわと、後戻りできない道へと進み始めたのだ。

 

 そしていま、俺は立派なニートになった。なにしろ働きたくない。しかし人間は働いて金を稼がないと生きていけない。でも絶対に働きたくない。どうしよう……。

 そうだ、小説家になればいいんだ!!!!

 しかしながら、先のエントリを読んでもらえばわかるように、まったく小説が書けていない。ここでようやく本題に入れるわけだが、なぜ書けないのか、あるいは書いても全ボツにしてしまうのかといえば、甘えや怠惰は当然として、自分という人間にそもそもルーツが、根差すものが何もないからなのではないか、そう思ったわけなのだ。「私は◯◯先生の『××』という作品に衝撃を受けて、これしかない! と思って△△を始めました!」みたいな体験がない。あるいは逆でもいい。映画監督の青山真治は、中上健次の小説を読んで「これは敵わない」と思って小説家になるのをやめた、というような話を聞いたことがあるが、それも同じことで、つまり「何か」に魂を揺さぶられ、人生設計の変更を余儀なくされるような決定的な体験が、自分にはまったくないのだ。もちろんこれは極端な話で、そうそう簡単に誰にでもそんなことがあるわけがないのだが、もっとレベルを落として、「私は◯◯しかやってこなかったし、◯◯にかけては人に遅れをとることはない」などといったような、勝負できる専門分野もない。俺には何もないのだ。

 あたりまえだが、これもまた甘えなのだろう。誰だって、ひとつのことを十年ぐらい続ければそれなりのものになる。俺にはその時間があったはずだ。しかしすべて無駄にしてしまった。「いまからでもやればいい」たしかにそうだ。だが、俺はもう30なのだ。両親ももう老人と言って差し支えない。早く結果を出したい。そうやって焦れば焦るほど、何もできなくなる。いま、何かを始めたとしても、過去の貯金を切り崩すしか術はなく、その「貯金」さえないのだ、という話をした。貯金どころか、負債を抱えているようなものだ。

 

 それでもやっぱり、コツコツ返していくしかないんだろう。まずは、いまできることをする。そこからしか何も始まらない、始められないのだ。

では、その手は何のためにあるの?

 小説が書けない。これを読んでいるほとんどの人は「小説書いてたんだ」という感想を抱くのではないかと思うが、小説を書いていたのである。ほんの一時期。掌編や、断片的なものはたまに書くが、長編と呼べるものを書き上げたことは一度しかない。

 それまで、ライトノベルをろくに読んだこともなかったのだが、平坂読の『ラノベ部』を読んで、ライトノベルならではの面白さというのを初めて知った。もともと中学生の頃からぼんやりと「小説家になりたい」とは思っていて、まあろくに書きもしないで夢ばかり見ていたらこのような有り様になってしまったわけだが、そろそろまともに一本書いてみようと、いっちょラノベでも書いてやろうと、そういうモチベーションを与えてくれた。正直に言って、半分ぐらいは「ラノベは他のジャンルに比べたら門戸が広いだろう」という打算もあった。

 なにしろ初めて書く長編だったし、手探り状態で書き進め、結局、未完というか尻切れとんぼのような形になってしまったものを、第一回このライトノベルがすごい!大賞*1に送った。一次選考は通過したが二次選考で落選。それをリライトしたものを同じ年のGA文庫大賞に送り、結果は同じく二次選考落ちだった。

 そしてそれ以降、今日に至るまで長編は一本たりとも書き上げていない。これを書いていて恐ろしくなったのだが、6年間、何もしていなかったということだ。

 6年間である。

 最初に「小説が書けない」と書いたが、なぜ書けないのかというと、書かないからである。これはワナビならば誰もが経験したことがあると思うが、いざ書き始めても、書いたそばから「なんでこんなつまらないものを書いているんだろう?」と自ら批評を始めてしまう。理想が高すぎるのだ。理想に近づくためには書くしかない。しかし理想とのギャップがあまりにも大きすぎて、書くのがつらくなってくる。そして書かなくなる。書かないでいると、理想はますます遠ざかっていく。

 小説を書くのは楽しい。とても楽しい。精神が研ぎ澄まされ、世界から音が消え、言葉を紡ぐだけの存在になる。掛け合いを書いているとどんどん気分が昂揚していく。いいフレーズが出てきたときなどは快感が走る。しかし、寝て起きて文書を立ち上げると、そこにはゴミしかない。この地獄に耐えられる者だけが、小説を書き上げることができる。「小説を書き上げる」という最低目標の達成に必要なのは才能でも知識でもなく、打たれ強さである。俺はとてつもなく打たれ弱い。あまりにも打たれ弱いので、打たれてもいないのに心が折れてしまった。

 打たれ弱さの他にもうひとつ、ろくに準備もせずに書き始めてしまうという悪い癖があって、これが途中で投げてしまう大きな原因であることは間違いない。少なくとも今年中に一本書き上げたいし、書けなければ終わりだと思っているので、次に書くときは一週間ぐらいみっちりとプロットを練ってから書き始めるという手法を採用したい。

 

 最後にもう一度だけ言うが、小説を書くのはとても、とても楽しいのだ。他には代えがたい楽しみなのだ。その楽しみを、くだらない理想主義や焦燥感に押し潰されるのは本当にもったいない。俺はまず「書かなきゃいけない」という思い込みをこそ捨てるべきなのかもしれない。

*1:栗山千明などを動員し、当時はそれなりに注目を集めたが現在は死にかけている